Updated on Oct. 1st, 2001. |
3日目
朝目を覚ますと、雨戸に風と雨が吹き付けているのが聞こえる。1日や2日くらいは雨や海が荒れることを覚悟したが、いざそういう状況下に置かれると、本当につまらない。一日中テレビ見たり、本読んだり。食事が、すべてインスタントものだし。 この日唯一感動したのは、夕方にフジテレビでやっていたMUSIC FAIR 21に、筆者の大好きな杏里の歌声だった。オリビアを聴きながら・ドルフィンリングを脂ののった歌いっぷりで聴かせてくれた。筆者の父島に来た目的がイルカに逢うことだっただけに、ドルフィンリングの歌詞が心に響いた。 美空荘の奥さんの勘では、今夜いっぱいで晴れるでしょうとのこと。このとき筆者の頭の中で、「ドルフィンスイムは3日後くらいまで待たないとダメなんだろうな」と予想。それまで、陸上の観光を決心。 夕方になって一度外に出てみたが、突風が吹いてきて自然の猛威に恐怖を感じ、すぐに宿に戻った。
4日目まず、ビジターセンターに行ってみる。ビジターセンターとは、いわば小笠原歴史民俗資料館である。小笠原の歴史・人々の暮らしについて、小笠原をとりまく自然について、観光スポット案内が展示されている。
小笠原の歴史は、江戸時代に始まる。信州深志(ふかし:現在の松本)の城主、小笠原貞頼が1593年に発見したと伝えられている。それまでは無人島であったといわれている。日本の古い記録に出てくる、“巽無人島(たつみぶにんとう:※巽は八丈島の南東洋のこと)”が欧州に紹介された際、“無人”が“ボニン”となったといわれ、地図の上ではBonin Islandsとして外国に知られた。 ペリーが浦賀に来航する前に小笠原に寄って、部下を滞在させ、山羊を置いていったといわれている。ペリーの知らせを受けて、江戸幕府が咸臨丸という調査船を送り込み、父島や母島に役所を置いた。それ以降、明治・大正と内地からの移民した人たちがが農業・漁業で発展した。その当時から定期船が存在していた。昭和時代は、太平洋戦争を機にアメリカの占領下に置かれ、1968年に日本に返還されている。なので島を歩いていると、アメリカ人やハーフの人たちを見かけることがある。
づけ丼を食べながら、隣のテーブルに来た島の漁師さんらしき人と少しお話をした。今日は二見漁港の船で海に出ようかと思ったけど、台風直後で波が高いのでやめて帰る途中に一遊に寄ったらしい。どうも、一遊の常連さんのようだ。「いつ来て、いつまで島にいるんですか?」「お天気残念ですネェ」「暇なときは、おがさわら丸の見送りしてるんですよ」なんていう会話を交わした。この人とは、帰りのおがさわら丸乗船間際に、もう一度お会いすることになる。
一遊を出て、裏山の階段を上って、大神山神社へ。「はるばる東京から参りました。大自然の美しさを見せてください。イルカに逢わせてください。」という願いを込めて、参拝。 境内からは、大村と二見湾を一望できた。曇りがちの天気で海は多少荒れているが、それでもエメラルド色だった(ひどく濁っていない)。本文左側の“境内からの二見湾”という写真の海岸近くによく見ると、人の頭が黒の点でいくつか見える。それはサーフィンを楽しんでいる人たち。
大神山神社から村役場前まで、村営バスを乗りに行く。村営バスは2000年末に営業開始したばかりだそうだ。車両もまだ新型。路線バスとして営業開始する前は、路線バスはなく小笠原丸入港時に観光バスが行き来していただけそうだ。とはいうものの、路線で島の名所を通りかかると運転手さんが観光案内してくれるし、バス停ではないところでも止めてくれる。 とりあえず、小港海岸へ行ってみた。この前散歩して小笠原海洋センターあたりまでしか歩いていないので、その先へ南下するのは初めてだ。パンフレットで見て知った観光名所、境浦海岸・扇浦海岸を通ったり、道端の野生のポトスを紹介してもらったり(僕とというよりは他の人と運転手さんの会話)、楽しいバス旅だった。
小港海岸では1時間過ごした。サーフィンしてる人たちを眺めつつ、小港海岸のQTVR写真を撮って、枕状溶岩(※)を撮って、八ツ瀬川を眺めたり写真撮影したりした。バス停のところから小港海岸と中山峠の分岐がある。中山峠というのは、小港海岸の向かって左側の崖の上のことだ。もし台風が来た後でなく、晴れていれば絶好の景色が見られたに違いないが、海岸から見た海水があまりにもどんよりしていたので、登る気さえ起きなかった。
小港海岸を後にし、バスで境浦海岸へ。バス停がある少し手前の濱江橋あたりで下ろしていただく。道路があるのは崖沿いの比較的高いところで、しばらく坂道を下って海岸へ出る。 濱江丸にまつわる歴史は上の写真にある説明文通り。今は戦争の傷跡を伝えるものとして、また魚礁としてもいいので、そのままにしてあるとのこと。濱江丸の姿には、歴史的な出来事が今から遠い昔に起きたことではないんだという、認識をさせられた。境浦海岸でも1時間過ごしたが、濱江丸を見つめ続けることにいつまでも飽きなかった。 この日は休日で、16:44に最終バスが来る。それに乗って、大村の方へと戻っていった。 村役場到着は17:00くらいで宿に戻るには早いと思ったので、その足で宮之浜へと向かう。診療所あたりでバスを下ろしていただいた。境浦海岸からは筆者一人貸し切りで、運転手さんとお話をした。筆者が持っていたデジカメや、パソコンのことをお話しした。「パソコン関連の消耗品なんか、多めにストックしとかないと行けないんですよ」と、島の不便さを少し嘆いていらっしゃった。
道路の途中に立っている道標によれば村役場あたりから宮之浜へは2kmくらいだが、道のアップダウンが激しく、それ以上に感じた。 宮之浜の右の方に、崖をつたって木の道ができていたので、それを少し歩いてみた。すると、少し高いところへ続く、遊歩道が見えてきた。どうやら東隣の釣浜まで続いている道のようだ。しかし、夕暮れだったのでその道の1/3くらいのところで折り返した。その遊歩道からは海を挟んで兄島が見えた。兄島は、人が住んだ歴史のない無人島。そのため、植物などは固有種が多いという。
店はいかにも飲み屋さん。店員は20代くらいの女性2人。お客さんは地元のおじさま方が、仕事帰りに飲んでいるようだった。筆者飲めないのでお酒は頼まず、亀の刺身とみそ汁だけを頼んだ。白いご飯も頼んだが、断られた(!?)。亀とは、父島に産卵に来るウミガメ。とくにアオウミガメという種類の亀が古くから食されている。一般的には馬刺のようだと言われている。赤身で牛のたたきのような、でも魚の刺身10%+動物の肉の感じ90%な歯ごたえがした。しょうゆと、好みによりしょうがをつけていただく。おいしかったが、お腹が満たされなかったので、宿に帰ってあらかじめ買ってあった小さいカップ麺を1つ食べた。
|